守山の遺跡

1.服部遺跡

  

【所在地】守山市服部町

【遺跡の発見】肥沃な土壌と豊富な水をもたらした野洲川は農耕に豊かな恵みを育んでくれましたが、野洲川は古来より暴れ川としても有名でありました。特に南北二流に分流した下流は著しい天井川化が進み、江戸時代以来、数限りない洪水による災害をもたらしてきました。このため二分流を一本化して災害から守る計画が立てられました。昭和46年以降、工事が進めらましたが、昭和49年夏に中洲小学校の児童が採取した土器を契機に、服部町で行われていた橋梁仮設現場付近に大量の土器が発見されました。このため、周辺地域の分布調査を実施したところ、放水路幅200m、農道2号橋をはさんで上下流600m以上にわたって、弥生〜鎌倉時代の遺物が大量に存在することが判明しました。しかし、現在は野洲川の下に埋もれてしまいましたので直接見ることはできません。

【遺跡の概要】遺跡の誕生は今から2500年前に遡ります。弥生時代早期に遺跡の中央にあった微高地に人々が住み初めました。微高地南側の低地を開墾してミニ水田を作り、米つくりをはじめました。およそ100年間ほど田んぼとして使用されたと推測されますが、大きな洪水で埋もれてしまいます。水田の上におよそ40〜50cmほどの土砂が堆積したのです。この土砂が乾燥して荒地になると、今度はこの場所が墓地となりました。発掘調査では、地表下約2.5〜3.0mに弥生時代前期の水田跡が約2万uも広がり、その上層に総数360基を越える弥生時代中期全般にわたる方形周溝墓群・弥生時代中期〜後期の円形竪穴住居・古墳時代前期の竪穴住居・同時代中・後期の方形・円形周溝状遺構が重なり、北半では弥生時代前期から平安時代中頃に至るまでの遺構が確認されました。一方、遺物は遺構よりも時代幅があり、縄文時代晩期〜鎌倉時代まで出土量は莫大でコンテナで3000箱以上になりました。

【発掘の成果】土器多数(壷・甕・高杯・鉢)・方形周溝墓・石斧・石鏃・竪穴住居址(100棟以上)・環濠・野洲川の洪水痕・朱塗りの木製品・鉄製品・炭化米・杓子・埴輪・木製の弓・鍬・田舟・田下駄・須恵器・土師器・やまと琴・銅印・銅銭などが発見されました。

写真  木製の棺おけ
出土した櫛の写真(朱塗りが施してある)
出土した古代の琴の写真
出土した銅製の印(おとさだ)
木棺
朱塗りの木製品(堅櫛)
やまと琴
銅印(乙貞)


2.伊勢遺跡

【所在地】守山市伊勢町

【遺跡の発見】昭和56(1981)年に民間の宅地造成工事に先立って実施した試掘調査によって発見されました。調査を進める中でこの遺跡は守山市伊勢町・阿村町・栗東市野尻にかけて広がる、弥生時代後期の巨大な集落遺跡である。その後、平成19年3月までに実施した発掘調査で、東西約700m、南北約400mの楕円形状に形成されていることが明らかになっています。集落が営まれた時代は縄文時代晩期(BC6世紀頃)から鎌倉時代(13世紀)で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1〜2世紀)です。

【遺跡の概要】弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、竪穴住居の平面形には円形・方形・五角形の3種類があります。また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、床面積が30u以上にもなる大きな大型建物もあります。遺跡の西半部には竪穴住居が広がり、東半部の大型建物跡が無くなると、そのあとにも竪穴住居が造られるようになります。遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれていますが、弥生時代集落の有力者の墓域と推定されています。また、遺跡の東端では、幅約7m、深さ2m以上もある大きな堀のような大溝があり、北側は方形周溝墓、南側は、旧河道であったと推定されています。

【発掘の成果】竪穴住居形式の大型建物跡・古代のレンガ「セン」・方形周溝墓・土器・首飾り・柱 等

当時の建物を想像した図
当時の建物を想像した図
出土した首飾りの写真
発掘現場から出土した柱の一部
方形区画内建物(CG)
方形区画内建物(CG)
首飾り
棟持柱


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3.下之郷遺跡
  
【所在地】守山市下之郷町

【遺跡の発見】昭和55(1980)年の公共下水道工事で弥生時代の溝、柱穴が検出され、弥生土器、石鏃が出土したことから、下之郷遺跡と命名されました。その後、発掘調査を実施し、下之郷遺跡が3条以上の環濠を巡らせる巨大な環濠集落であることが判明しました。平成10年、市道改良工事で発掘調査を実施した結果、6条の環濠、円形壁立式建物、遺跡中央部で方形区画溝や掘立柱建物などが発見されました。それにより本遺跡が滋賀県最大の環濠集落であり、当時の政治動向や社会、人々の生活を窺う出土品が豊富に埋蔵され、自然環境も復原できる遺跡であることが判明し、平成14年3月に国指定史跡となりました。

【概要と成果】

(1)土器は大量に出土している。井戸から出土したものには籠目土器(植物繊維を網目状に編んだもの)やミニチュア製品がある。

(2)石器は、環濠から磨製石剣、環状石斧、環石、石鏃、石斧などが発見されています。

(3)木器には、祭祀用の組物や盾、木偶、装飾弓(漆塗り)、鍬、鋤、容器、杵などが発見されている。

(4)金属製品には銅剣がある。また、戈の柄が出土しており、その形状から大阪湾型銅戈が着柄されていた可能性が高いと考えられます。

(5)稲籾のDNA分析を行ったところ、ジャポニカ種の温帯型に加え、熱帯型が確認されました。

(6)環濠から多量の魚骨が発見されています。その骨の多くが琵琶湖の固有種であるゲンゴロウブナの頭骨部分と判明しました。

 (7)ウリ科作物(メロン仲間)の果実部分が出土しました。当時の食生活の具体的な様子や栽培植物のあり方を探る上で非常に貴重です。

(8)遺跡中央部には、溝で区画された規則正しい建物配置があり、ここで集落全体の政治や祭祀が行われていたと推測されています。


植物繊維を網目状に編んだ籠目土器の写真
井戸枠のない素掘りの井戸の写真。土器が見えている。
木で人型を作った木偶の写真
木製の盾の写真
籠目(かごめ)土器
井戸(突出しているのは土器)
 木偶
 木盾
出土した稲籾
うり科の果実(メロン)の写真
当時の人が住んでいたと思われる住居の復元図
銅かの写真
 稲籾(いねもみ)
うり科の果実(メロン)
平地式住居復元図 
銅戈(どうか) 
 

 


4.その他の遺跡

 (1)下長(しもなが)遺跡

 古高町の工業団地一帯にほぼ重なるように広がる下長遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての集落跡として知られています。遺跡は、中央に河川(旧河道)が東から西方向に流れていた緩やかな土地に立地すること、縄文時代中期、晩期、弥生時代中期、弥生時代後期から古墳時代前期、古墳時代後期、平安時代中期のおおむね6時期の集落が営まれたことが発掘調査によってわかりました。集落域の北西部には、溝によって方形に区画されている大型の掘立柱建物と土坑群が散在する2つの区域が見つかっています。また、権力を象徴する威儀具や祭祀具の出土から有力者が政治やまつりを行った「首長居館」(大規模な建物)と「祭祀域」に想定できる場所が集落内部に備わっていたと考えられています。また、水上交通の手段である「準構造船」や他地域との交流を示す外来系土器の出土から、下長遺跡の古墳時代前期の集落は、琵琶湖の水運を利用した物資の流通を担っていたと考えられるようになりました。更に、遺物の中に鋭く削られた跡の柱の根元が見つかっていることから、鉄の工具の普及を想像させます。

*「準構造船」とは、丸木舟に竪板などの部材を継ぎ足すことによって積載量を増大させた船のこと。

*「儀仗」とは、威儀具のひとつで長さは1.2m 古墳時代前期に属すものとしては国内唯一で、保存状態も良好であります。

準構造船の説明図
儀仗の全体図の写真
儀仗の頭部の拡大写真
準構造船
 儀杖
儀杖頭部

 

 (2)益須寺(やすでら)遺跡
 
吉身五丁目一帯にある益須寺遺跡は日本書紀にも書かれた寺院として知られています。発掘調査では昭和40(1965)年にセン積みの溝が確認され、昭和48(1973)年の調査では瓦が多数発見されました。また、昭和60(1985)年の発掘でも瓦が大量に発見されていて、吉身地先には白鳳期の寺院跡のあったことは確かになっています。軒丸瓦のうち、白鳳期のものは直径が約20cm、厚み約3cmの大きなものです。また、軒平瓦は瓦当面の厚み8cm、長さ30pほどもあり、忍冬唐草文・均正唐草文や重弧文があります。寺跡は市街化が進んで土地の区画や形状が変化してきて往古の地形や起伏そして道路が不明瞭になってしまったため、場所を特定しにくくなっています。


 
 (3)横江遺跡

 昭和58(1983)年から実施した発掘調査で中世の集落であることが判明しました。横江遺跡は志那街道に面し、河川に挟まれ水利に適した土地に立地しています。横江遺跡の中世集落の初現は11世紀代とみられ、12世紀から13世紀前半頃までは「家」と見られる数棟の建物ごとに分散居住していたようです。溝で囲まれたひとつの屋敷地が1軒の「家」に相当すると考えられ、主人が暮らす母屋をはじめ、副屋や倉庫などの大小の建物と井戸が作られていました。屋敷地を囲む溝には、川から水が引き入れられていたとみられ、村の用排水や小舟での運搬にも利用されたと思われます。当時の人々が使用したものとして、黒色土器碗・土師器皿・白磁・青磁・五徳・石製硯・天目茶碗・土製火鉢・箸・柄杓・下駄・へら・砥石・毬杖の玉などが発見されています。

 (4)欲賀(ほしか)遺跡

 欲賀町集落の西側を、北から南にかけて集落を囲むように欲賀遺跡・欲賀南遺跡・欲賀城遺跡があります。この遺跡内では、圃場整備に伴う調査(平成4(1992年)年〜平成7(1995)年)や、区画整理前の発掘調査(平成15年〜平成19年))が行われました。欲賀遺跡や欲賀南遺跡では土器や石棒などの石器がみられることから生活の痕跡を縄文時代に遡ることができます。この頃の人々は、境川に面した小高い土地に住み、周辺の林や森から採取・捕獲した動植物を食料にして生活を営んでいたのでしょう。ただ、土器の出土量が少ないことから、ムラの規模は小さく、短期間で他の場所に移動していったと考えられます。中世になると井戸が37基も発見され、大きな集落があったことを想像させます。また、約1.5m四方の大きさの穴に、砂混じりの炭がぎっしり詰まった墓地も発見されました。この砂の中には信楽焼の小さな壷や瀬戸焼の仏花瓶・香炉などとともに白くなった骨片が出土しました。更に、石製五輪塔も見つかっており、墓の上に立てられていたものが崩れて落ち込んだものと思われます。


 (5)播磨田城遺跡

 昭和60(1985)年に行われた中世城郭分布調査により、字「古城」の地名が残っていたことから遺跡として扱うようになりましたが、詳しいことはわかっていませんでした。平成9(1997)年試掘調査で、中世の生活跡と遺物がたくさん見つかったことで、区画された集落跡であることがわかりました。生活の必需品である食器には、土師器の皿や黒色土器碗の出土が多く、鍋・釜の他、信楽焼や東播磨産の捏鉢、瀬戸焼のおろし皿、越前焼の壷などが見つかっています。



 (6)二町(ふたまち)鏡遺跡

 中山道の西200mほどのところにある、縄文時代後期から中世にかけての集落遺跡です。昭和63(1988)年に市立物部小学校建設に伴う調査により発見されました。屋敷地を区画する中世の溝や井戸・大小の建物が作られていました。中でも井戸の多くは曲物を数段重ね、井戸枠としているものや、石積み井戸・八角形に枠組みした珍しい構造の井戸も見つかっています。遺物としては黒色土器碗・土師器皿・土釜・信楽焼きの甕や鉢・青磁・白磁の碗・土製火鉢・輸入銅銭などが出土しています。


5.守山市立埋蔵文化財センター

  施設利用案内

開館時間:午前9時〜午後4時

休館日:火曜日・祝日の翌日・年末年始

入館料:無料

住所:〒524-0212 守山市服部町2250番地 電話・FAX:077-585-4397

交通:JR守山駅から近江バス(服部線)「埋蔵文化財センター」行き 守山駅から約20分 運賃 470円

自家用車は名神高速道路栗東インターから約30分。琵琶湖大橋から20分。国道8号線から20分

館内見学:団体に限り、整理作業や収蔵庫見学可能( 事前に申し込みをお願いします 

体験学習:火おこし等 土・日曜日(無料)


  公開事業

    歴史入門講座 〜 毎年6月から12月の第3土曜日の午前中に6回開催します。

              5月に募集しますが、定員は約60人程。

              講師は大学教授または文化財担当職員で、受講料は1200円です。

    特別展  〜 春・秋に2回開催しています。入館無料。テーマは毎年設定します。

市広報や報道機関等で案内していますので、皆様のご来館をお待ちしております。

    出張講座と展示 〜 申し込みがあれば職員が出張し、自治会等での文化祭等に出土品を展示します。

               ( 事前にセンター職員と打ち合わせをお願いします )

    体験学習  〜 火おこし体験等( 事務室に連絡をお願いします 




守山市立埋蔵文化財センターの写真
守山市立埋蔵文化財センターホールの展示物の写真
歴史入門講座の風景写真
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守山市立埋蔵文化財センター
守山市立埋蔵文化財センター         (ホール)
歴史入門講座風景
歴史入門講座風景
案内図